2023-24台南旅行

コロナやらなにやらで4年ぶりの海外旅行である。この年末年始は近場で楽しめそうなところで、台南に1週間行くことにした。ただぼんやり行くのもつまらないので、戦前に書かれた本の舞台を見てこようと思う。幸い各書の解説が親切で、地図なども掲載されている。

1.内田百閒のシュガートレイン(新営の五分車)

『蓬莱島余談』(内田百閒、中公文庫、初版2022年)

阿房列車』の著者である内田百閒は鉄オタとして知られているが、法政大学の教員時代には航空部の顧問を務めたり、その後は日本郵船の嘱託になったりと、乗り物一般と縁が深い。郵船の嘱託になった昭和14年(1939年)の秋には、郷里の岡山中学の一年先輩の中川蕃(しげる)に誘われて台湾に旅行をしているが、その時も客船、汽車、自動車、そしてサトウキビを運ぶディーゼルの小列車(五分車)を9日間の短い日程で乗り回している。中川は当時明治製糖の取締役を務めており、その招きを受けて、入社したばかりの郵船に便宜を図ってもらったのである。

 

基隆に上陸した百閒は、明治製糖の倶楽部のある麻豆に行くのにも阿房列車を楽しんでいる。台北から台湾縦貫鉄道で南下し、乗換駅の蕃子田駅(現在の隆田駅)で降りるのをわざわざ乗り越して、当時の終点の渓州駅(現在の南州駅)まで乗り、そこから蕃子田駅に引き返したのだ。蕃子田駅から麻豆間で乗ったのが、通常のレール幅の半分の軽便鉄道である五分車だ。サトウキビ運搬以外に客扱いも行っていたようだ。

この五分車に乗ってみたい。調べてみると、

  • 麻豆に明治製糖の建物は残っているが、現在蕃子田線は走っていない。
  • 現在サトウキビを運搬しているのは雲林県の虎尾のみ。
  • 観光路線として営業しているのはいくつかあり、台南では烏樹林製糖、新営製糖がある。

ということが分かった。

サトウキビの収穫は冬場なので時期的には運搬しているところも見られそうだが、雲林県まで足を延ばすには日程が足りない。それは次回にとっておいて、新営駅から烏樹林と新営製糖と両方はしごできるので、ここに行ってみよう。土日しか運行していないらしいので、今回の旅程では大晦日に行くしかない。

 

最初は烏樹林製糖の五分車である。新営車站から黄色幹線のバスに20分乗って烏樹林で降りると、さっそく目の前の交差点を線路が横切っていてわかりやすい。10分ぐらい歩くと園の入り口である。

100元払って烏樹林駅のホームに入り、展示されている車両を眺めたり、猫と戯れたりしていると発車時刻になり、乗車する。案外と人が多く、最初に乗り込んだ短い編成の方から長い編成の方に乗り換える。

ゴトンとゆっくり動き出した五分車は、徐々にスピードを増してガジュマルの繁る園を抜けると、先ほど歩いてきたバス通りの交差点を渡り、灌木の直線に入って約20分の走行で、終点の新頂埤駅に到着した。

新頂埤駅では大腸包小腸と書くホットドック(字面を見るとぎょっとする)や冬瓜茶など飲み食いするものを売っている。トイレもある。10分ぐらい停車して、折り返す。

往復1時間ぐらい(バス停からの歩き時間は含まない)の旅であった。

 

さて、またバスで新営駅に戻って次は新営製糖の五分車である。実はバスに乗る前に、新営駅を出てすぐ左手に新営製糖の新営鉄道文化園区という看板が見えていた。このあたりの線路沿い一体が公園になっているのだ。以前は、[新営]ー[中興]ー[八老爺]という観光路線としては最長の4.6km30分を五分車が走行していたらしいのだが、現在は[新営]ー[中興]の1km足らずしか走っていない。短い。。。

 

発車時刻が合わないので、新営駅までの戻りに乗ることにして、中興駅までぶらぶら歩く。中興駅ではいろんな車両が展示され、アイスクリームも売っている。乗る車両はトロッコ列車ではなく、勝利号という青いピカピカの車両が待っていた。あとで調べると、これは1949年日立製作所製の気動車で、つい半年前2023年7月から土日祝日に運行することになったそうだ。

走行時間は10分に満たない。これはこれで貴重な車両なんだろうが、少々味気ない。

 

さて、台南市の五分車はこれで終わりなのだが、高雄市郊外の橋頭製糖にも五分車が走っている。旅程上、土日祝日の運行日には行けなかったのだが、ここは廃製糖工場の見学ができるので別の日に行ってみた。台鉄の橋頭駅か、MRTの橋頭糖廠駅から行かれるので便利である。

広々とした敷地全体が公園のようになっており、五分車や工場、当時の官舎などの展示の他、バーベキュー場や花卉園まで附属していて、地元の人も来るようだ。

 

百閒だけで長くなってしまった。

2.大耳降の日式建築(大目降=新化区の日式建築)

『応家の人々』(日影丈吉、中公文庫、初版2021年)

日影丈吉の『応家の人々』という台湾ミステリー小説がある。百閒が渡台したのと同じ昭和14年(1939年)、台湾の大耳降という町を舞台に何件かの殺人事件が起こり、内地から特務の中尉が派遣されて謎解きを行う推理小説である。日影は1943年に応召して台湾に駐屯しているが、本作は1961年の発表である。推理小説としては正直微妙であるが、台南の情景が美しく描写されている。

舞台となる台南の大降という町の名前は、大降をもじったもので、1920年に郡役所が置かれて以来、新化と呼ばれている。1920年代の古い町並みが残る新化老街が有名である。

大耳降街は台南平野の片隅にあり ―この辺から嘉義方面にかけて徐々に登りになる― 台湾海峡に面した平野の中の、大きな村落という感じだが、中心部に思ったよりこざっぱりした煉瓦の建物が並んでいる
(『応家の人々』日影丈吉、中公文庫)

新化老街は鉄道駅から離れているので、台南から40分ぐらいバスに乗るのが普通のアクセス方法だ。今回は新営から台南への道中によったため、最寄りの新市駅で降りて5kmほどシェア自転車(YouBike)を漕いでいった。なお、小説内でも主人公は台北から大耳降に鉄道で向かっていて、最寄り駅から5、6キロ、かなり歩かされたという記述がある。

 

私はまず警察署へ寄ることにした。警察署は街役場の構内にあった。小さいが、むっくりした感じの、黄色い煉瓦建ての立派な洋館が二つ、檳榔樹や棕櫚の木の茂みにかこまれて、ならんでいるところは、駱駝のこぶを思わせた。(引用同)

警察署が入っていたという街役場の建物のモデルはこれであろう。街役場という看板が正面にかかっているこの建物は、現在は1934街役場古跡餐坊というレストランになっている。1934年の竣工だから、1939年時点では築5年の新しい建物だったはずだ。現存が当初からどれだけ変わっているか分からないが、久我中尉のみた黄色い煉瓦は、台南の林百貨店や台南市美術館と同じ黄色いスクラッチタイルだったかもしれない。1923年の関東大震災当日に落成した帝国ホテルが無事だったため、帝国ホテルで使われていた黄色いスクラッチタイルがしばらく流行したという(その耐震効果は専門家によると神話に過ぎないそうです)。

 

それから、一、二日この町にいたいと思うんですが、宿舎をお世話ねがうように、署長さんに話しておいてください。(引用同)

久我中尉はこんなところに泊まって探偵したんだろうか。木造平屋建ての長屋で、住んだことはないがどこか懐かしい。雰囲気が出ないので裏から撮ったが、現在はおしゃれなバーやお店が入っている。

 

氷屋は短いメーンストリートが果てるところの、町角のちかくにあった。
浅い亭仔脚(アーケード)のかげにアイスクリームのストッカーをならべた狭い店があり、店の床を一段あがって、パーラーにはいるようになっていた。(引用同)

事件の一つが起こった氷屋は、アーケードの端にあったという。

このアーケードが有名な観光地の新化老街である。1920年代に作られた繁華街だというから、大目降が新化という名前になった頃に成立したのだろう。きれいなので古いものでも建物の改修改築は行われているようだ。神保町の看板建築のようなファサードで、一階部分が引っ込んだ台湾でよく見る形式である。ほんとに短いので、台南からわざわざ40分かけてこれだけを見にくるとがっかりするかもしれない。

 

3.衰頽した市街の荒廃の美(台南の運河跡)

『女誡扇綺譚』(佐藤春夫、中公文庫、初版2020年)

「じょかいせんきたん」と読む。1920年というから今から100年ほど前である。手酷い失恋で失意の底にあった佐藤春夫は、台南で歯科医を開業していた郷里の親友に誘われて台湾に旅行する。7月から1か月のつもりが丸一夏、3か月の旅行になったという。郵船の船で基隆から上陸したのも百閒と同じだが、春夫の頃は台湾が明治28年(1895年)に日本の領土になってから25年しか経っておらず、原住民の抗日運動である霧社事件に遭遇している。時代や著者の心的状況を反映してか、前に紹介した2作より暗い印象が強く、また日本の影響を受ける前の文物の描写が多い。

台南の中心部の西側、現在の神農街のあたりは、清代には5つの運河で安平港とつながっており、五条港と呼ばれる港が貿易で栄えていた。しかし、運河は土砂の堆積で徐々に埋まってしまい、春夫が訪台したころにはすっかり荒廃していた。女誡扇綺譚は五条港の一つ、佛頭港(作中では俗称の禿頭港)の周辺の「衰頽した市街」を、友人と古地図を見ながら「荒廃の美に打たれ」ながら歩くうちに、清代の富裕な商家の廃屋に遭遇し、そこで事件が発生するミステリーとなっている。中公文庫版の『女誡扇綺譚』の解説によると、廃屋のモデルとなったと思しき建物は、残念ながら2019年に壊されてしまったそうだ。

現在の運河の奥に、当時の五条港を示す案内板があった。春夫の友人が持っていた古地図はないが、幸い「台南歴史地図」というアプリがある。Googleマップと古地図を重ね合わせて表示してくれる優れもので、これを頼りに当時の運河の痕跡を探してみよう。

まずは禿頭港。正式な名称は佛頭港だ。佛頭港そのものはないが、港にあった景福祠という廟が残っている。場所は、水仙宮という大きな市場の中である。あとから周囲が商業地区になって市場に埋もれたらしい。

水仙宮市場の西側に比較的新しい門があり、たしかに「佛頭港景福祠」と書かれている。賑やかな市場の中に進むと、奥に祠が鎮座しており、人々がお参りをする姿が見られた。正月ということもあり、贋の紙幣を燃やして神様やご先祖に捧げる金炉も稼働していた。

1896年の台南城図でも、佛頭港街の文字が見る。次は古い町並みが残る観光名所になっている神農街に行ってみよう。

神農街は、南勢港の北側に位置していたので、元は「北勢街」と呼ばれていたが、通りの西端に神農を祀る薬王廟が建てられたため、神農街と呼ぶようになったそうだ。現在はリノベーションされたおしゃれな店が並ぶ観光名所となっているが、古い外観は残っている。『歩き方』によると、二階から荷物を上げ下ろしするためにバルコニーがせり出しているということだが、それにしてはせり出しが小さいように思う。当時のままではないのかもしれない。

神農街の中央付近にある金華府という廟は、当時五条港の五大氏族の一つだった許一族が建てたものだそうだ。並ぶ町屋と同じく敷地の幅が狭い。

西端の薬王廟のあたりまで行くと観光名所の喧騒も落ち着いて、女誡扇綺譚の大きな商家の廃屋が出現してもおかしくないような雰囲気になる。

 

さらにアプリを確認すると、現在の海安路二段269巷と259巷の狭い路地は運河だったようだ。行ってみよう。

途中、暗渠(路地の右側の部分)があった。これも運河の名残だろうか。

路地まで行ってみると、五条港のマンホールがあった!

路地の出口に直交して見える海安路から一段低くなっている。たしかにここは清朝時代には運河だったのだろう。100年以上前の痕跡が残っているのは驚きだ。埋め立てられたのもあるだろうが、幅が狭い。大きな船ではなくて小舟で艀をしたりして貿易を行ったのだろうか。

4.おまけ(虱目魚:サバヒー)

台南では、サバヒーという魚を粥に入れたり焼いたりしてよく食べる。妙な名前の魚だが、百閒によると、昭和14年当時も安平魚(アンピンヒイ)という魚を育てていて、鯖とは似つかぬ魚だが日本名で「まさば」と言う事にしていたそうだ。「ヒイ」は魚だから「まさば」と「ヒイ」が合体して「サバヒー」になったのかしらん。

 

2023年5月連休の五島列島

ずいぶん書かなくなってしまった。

ほぼコロナの喪が明けたような状況でさてどこに行こうか、海外に行くほどの気合もなく、あまり思いが定まらないまま、潜伏キリシタンの遺構が世界遺産になった五島列島に行くことに決めた。離島は行きづらいのである程度まとまった日数があるときでないと。

せっかく?なので、福岡からフェリーで上五島からはいって、下五島から長崎に抜けるルートにしたが、後半荒天で旅程に変更が入り、宿やフェリーの手配が大変だった。また、よく調べると往復同じ船で入ると例の旅行割が使えるようだったが、全然気がついていなかった。縦走ではなく、ハブ&スポークで旅程を組むのが正解だったようだ。そういう感覚が鈍っている。

 

最初は、福岡空港からフェリー太古で小値賀島に渡る。博多港2345発で小値賀0440着だが、博多港のそばに温泉施設があるしかなり早くから乗船できるので楽だった。小値賀港でもきれいな待合室で仮眠ができる。0725発の町営船はまゆうで野崎島に渡って、すぐに王位石への半日トレッキングに参加。天気がよく道も歩きやすくてよかった。ガイドツアーへの参加が必須でちょっと高い気もするが、離島は全体的に価格が高めだ。

旧野首教会やきれいな海岸を見て、その日は旧学校の宿舎に泊まる。GWだというのに3組しかおらず、広い教室に一人で泊まった。野首教会は天井が一部崩落しており中には入れず。

この野崎島が今回のハイライトだった。

翌日は、0805発の船で小値賀に戻り、高速船で有川に渡る。1205着。

五島うどんを食べて頭ヶ島天主堂などを見る乗合タクシーツアーに参加。バスで行こうと考えたが本数が少ないので他のところも回るツアー利用にした。

戻って有川のアメダスをみる。学校の隣のお寺の墓地の中にあった。この日は蛤浜近くのカプセルホテル泊。予約が遅れたのもあるが、とにかく宿が高い。

次の日辺りから雨になる。朝、きれいな浜などをぶらつこうと思っていたがそういう天気ではなかったので、コインランドリーで洗濯など済ます。洗濯と乾燥で1000円。後日の長崎では半額だった。有川1329発奈良尾港1444着のバスで移動し、フェリーで福江に向かう。上五島下五島の連絡が悪くて有川からつながらない。それぞれ九州本土とは接続が複数あるのだけど。1620福江着。城跡などを見る。

この辺から巻きが入る。知床の事故の後、船を無理に出さなくなったそうで、特にジェットフォイルや高速船はすぐ止まる、フェリーは比較的頑張るということだった。6日に前線通過の予定だが、その前日の5日もあやしい。6日にジェットフォイルを予約していたが、5日のフェリーで長崎に帰ることにする。5日は自転車をレンタルして奈留島に、6日はツアーで福江島を回る予定だったがキャンセルする。この日は福江のドミ泊。

5日。朝は傘をさして福江のアメダスを見に行く。

16時のフェリーにしようと思ったが、最終なので念のため11時のフェリーを狙って港に行く(フェリーは事前予約できない)。9時のジェットフォイルが欠航になったので既に列が長い。2時間待ちを覚悟するが30分ぐらいで販売を開始してくれた。一人なので助かった。長崎について、中華街でちゃんぽん。無事本土に帰れたのもうれしく、おいしかった。とりあえず出島を見る。

6日は一日長崎。大浦天主堂、長崎のアメダスグラバー園直下の一等地!)、長崎県美術館、めがね橋など。食べ物がおいしい。飛行機は変更が難しかったので、もう一泊して7日の朝に当初予定通り長崎空港から羽田に帰還。

 

後半天気が悪かったのもあるが、キリシタン遺構に興味が持てなかったのでぼんやりした旅行になった。建築物として優れているわけではないので、潜伏キリシタンのストーリーに価値を見出せないとあまり面白くないと思った。野崎島は海もきれいでよかったので、他の島も天気が良くて自転車に乗ったりするとまた違うかもしれない。釣りをしたりとか。

2022年夏

コロナも落ち着いていたので、6月に尾瀬を沼田街道から鳩待峠まで歩いたり、7月には早池峰山に登ったり、GW以降も適当に旅行をしていた。何の規制も高齢者以外の4回目のワクチン接種もなかったので、コロナの感染者は7月に入ると当たり前のように増えていったが、何となく自分はかからない気がしていた。しかし、7/28、東京都の感染者が4万人を超えてこの夏一番のピークとなった日に、抗原検査で陽性が確認された。

 

数日前から喉が痛く咳が出るのでこれは怪しいとすぐに掛かれる医者に診てもらったところ、コロナの可能性が高いね、熱が出たら検査やってる病院で診てもらって、とのことだった(そこは検査はやっていない)。この時点で覚悟していたが、案の定、2日後に37.5℃を超えた。最後まで高々38℃程度で発熱は大したことはなかったのだが、ベッドに腰を下ろしたり立ったりを繰り返したのが良くなかったのか、同時にぎっくり腰になってしまい、発熱外来どころか狭い家の中でトイレに行くのにも難儀し、汗だくでも寝がえりも打てず、咳が出るとうめき声が出える始末。痛みがある程度ひくまで、先の医者にもらった薬と残っていたシップで数日しのいで、つながらない発熱外来に1.5時間電話をかけ続けて予約を取り、検査してもらったのが7/28だったのである。たぶん翌7/29の感染者数の報告に入っていることだろう。

 

7月に入ってからは、仕事も完全にテレワークで済ませ、日常的にはスーパーに行くぐらい、たまに外出しても外食もせずマスクを外すこともなく直帰する生活でも感染するのだから、これは運だなあと思った。慰めにはならないが、仕方がない。自分の経験でも発熱外来の予約を取って、感染を確定させるのがかなりの大仕事だったので、軽い人の中には、医者に行かずに済ませて隔離生活を送らないでいる人も相当数いて、実際の感染者数は報告される数よりよほど多いと思われた。

 

熱はすぐ下がったが2週間就業停止で休み、そのまま夏休みに突入した。

夏休みは、利尻富士に登って、礼文のトレッキングコースを歩く予定だったが、体力がおぼつかないのでテン泊の利尻富士はあきらめて、民宿泊で礼文だけ歩く計画に縮小した。礼文はよかったのだが、想像していたより難路(整備はされているがアップダウンが激しい)で結構疲れた。また、咳がしつこく残って、機内などでは気を使った。

帰ってからも咳が止まらないので、また医者に行ってステロイドの吸引薬を2週間続けた。喘息や肺炎は問題なく、PCR検査も陰性だが、咳が出るだけで思ったより体力を使うし、集中力も落ちるものだ。その後も何となく低調でこの夏はぼやぼや過ごしてしまった。

 

2022年5月奄美諸島

この連休は奄美に行ってきた。

ずっと気になっていたのだけど、世界遺産になったこともあり、ようやく重い腰を上げた格好である。

せっかく行くのだから、大島だけでなくほかの島にも上陸したいと思い、那覇からフェリーで途中降りたりしながら北上したら楽しいだろうと目論んだが、旅程を組んでみると案外厳しい。1日1便しかないうえに、多くの島では東西に港があり、日によって泊まる港が違うのだ。仕方がないので、大島以外では下船はせずに停泊時にフェリーから眺めることにする。喜界島は大島の先なので、大島の後にフェリーで行って、飛行機で帰ることにした。

GPSが切れ切れにしか取れなかったが、こんな感じである。

5/1 沖縄

那覇からのフェリーが7時に出るので、前日入りしなければならない。もったいないので午前中のフライトで那覇に入り、観光をする。

なのだが、なぜか出発する時刻に目覚ましをかけてしまい、羽田空港までタクシーを飛ばす羽目になった。8000円の出費は忘れることにする。

沖縄について、バスターミナルからまずはガンガラーの谷へ。ここは時間指定で予約が必要。

旧石器時代の港川人が住んでいたという洞窟で、入り口はカフェになっている。奥に入るとでかいガジュマルが生えていたりする。いくつかの洞窟をめぐるツアーになっていてガイドさんが説明をしてくれる。参加者は女性が多かった。

次いで、ガンガラーの谷の隣にある「おきなわワールド」というテーマパークの中にある玉泉洞

どんなもんかなと思ったが、想像以上に大きくてきれいだった。玉泉洞以外にも古民家を移築して売店にしてたり、色々見るものがあった。普段、テーマパークやツアー的なものは軽んじて行くことは少ないが、特にひとりだと行くといいと思う。

夜たべたタコスがおいしかった。国際通りはそれほど人出は多くなく、まだ観光客が戻っていない感じだった。帰ってからニュースを見ると、近場の観光地に行く人が多かったようだ。

5/2 フェリーで北上

フェリーは6時から乗船手続き開始、7時那覇出港、奄美大島の名瀬につくのが2030である。長丁場で開放部屋はまだ抵抗があるので、昼間だが2等寝台Bを予約した。2等寝台Bは8人部屋だが、徳之島までは一人利用だった。ただし部屋にいるとGPSの電波が入らないので、船内の椅子や甲板に出たり入ったりして過ごした。

最初の寄港地は沖縄本島の本部。ここはいつだったか美ら海水族館に来たことがある。瀬底島とつなぐ瀬底大橋が見える。雨はまだしとしと降っている。

沖縄本島や近くの島を左右に眺めながら2時間ぐらいで与論島に到着。ここから鹿児島なのだが、九州よりもむしろ沖縄が目と鼻の先だ。

島は平べったくて全体像がよくわからないが、飛行場が近いらしく飛行機が低空を飛んでいる。

島を離れるときにサンゴ礁が見えた。飛行機だと上から見えるが船からだと平べったい。このあたりから雲の切れ間に入って雨も弱くなってきた。

与論島の次は沖永良部島与論島よりだいぶ大きいのだけど、船からだと景色が変わらない。コンテナが鮮やかである。

次の徳之島にくると、島や集落が大きいのが船上から遠目にもはっきりわかる。5月は徳之島で闘牛をやるらしいので、一泊入れることも考えたが旅程がうまくまとまらなくて断念した。

この後、日没となったが、雲が厚くきれいな日の入りは見られず。

名瀬には予定通り暗くなってから到着。あしたはそこまで早く起きなくてもいいので、黒糖焼酎を一杯飲んだ。クセがない。

この日の名瀬のウィンドプロファイラ。前線の少し北側なので、下層に北風が入っている。上空は西風が強い。こちらはもう梅雨入り間近である。

5/3 マングローブでカヌー

起きると天気が良い。ホテルの前からバスに乗って、メインイベントのマングローブ原生林でカヌーを漕ぐ場所へ向かう。1時間弱でマングロープパークで下車。予約してたのはマングローブ茶屋というところで、1700円で1時間半ぐらい漕げる。説明を受けて、乗り場に車で送ってもらい、パドルの動かし方や注意事項を聞いて、いざ。

 

干潮が近かったのであまり奥まで入れなかったが、天気がいいのでカヌーに乗って流されているだけでも十分に楽しい。下りはよいが、引き潮なので帰りがなかなか進まず大変だった。1時間だと短いかなと思ったが、腕が疲れて十分だった。

同じバスに乗って、加計呂麻島への渡し口のある古仁屋へ向かう。フェリーで渡ってレンタル自転車で回ろうと思ったが、念のため電話したら出払っていて貸せるのがないと言う。慌ててフェリー船内でローカルバスを調べる。

加計呂麻島では、瀬相港に入り、生間港行のバスに乗った。生活用のローカルバスなので観光地を巡るわけでもないが、途中、秋徳という集落(特に何もない)で15分ぐらい停まる。ふらふら散歩して、また乗って、生間の手前の諸鈍で降りて、デイゴ並木などを見る。

案外アップダウンが大きかったので、自転車でなくてよかった。たぶん帰りのフェリーに間に合わなかっただろう。途中から貸し切り状態になったので、運転手がいろいろ話してくれた。高床式の倉庫があったり、港の防波堤ででかいアジが回遊してくるなど。

諸鈍のデイゴ並木はまだ早い。老木は咲くのが遅いらしい。寅さんの舞台にもなったというので調べてみたら最終回の48話で、すでに渥美清が病気で弱まっていたので寅さんの登場場面が少ないらしい。デイゴ興味で見てみたい。

 

フェリーで古仁屋に戻り、宿に向かう途中で、小学生低学年ぐらいの女の子連れに話しかけられる。観光客ですか?どこから来ましたか?東京はどんなところですか?大きなウナギがいるところを教えてあげます!など。和んだ。

宿はドミトリーは避けたかったのと他に適当なところがなかったので、初エアビー。広い。一人利用で罪悪感がある。大勢で旅行したら楽しいだろうなあとしんみり。

晩飯食べに出て、ACoopで買い物をしたり、夜散歩するなど。あまりすることがない。

5/4 名瀬から喜界へ

5/4、沖縄は梅雨入りしたとの報道があった。奄美はまだらしい。

予定より早く起きたので、早いバスで名瀬に戻る。鶏飯の店があくまで、名瀬測候所やイオンなどをふらつく。鶏飯は想像通りの味で、それ以上でも以下でもないような。

名瀬から日に数本のバスに乗って、国直海岸と宮古崎へ。

国直海岸にはフクギ並木がある。沖縄のものには負けるがここも雰囲気が良い。海岸もきれいで、子供らは早くも水に入っている。

宮古崎は30分ぐらい歩くと突端まで行ける。夕日がきれいだそうだが、その時間までいるとバスがない。道中から見える海の色がすごい。先の方は笹に覆われている。

この先端で海に向かって「xx先生おめでとう!」と書かれた手製の横断幕を広げて写真を撮っている人がいた。小学生ぐらいの男の子とおばあさんだろうか。明日、沖縄にいるこの先生の誕生日なので写真を撮って送るのだという。一緒に写真に入ったり、撮ってあげたり。別れ際におばちゃんが飴ちゃんをくれたが、ちり紙に包んだ紙幣と思しきものも掌に押し込んでくる。え、なんで?!と思い、いやいや受け取れませんよというも、息子と思ってあげるんです、と言われてしまう。もしかすると息子さんがご存命でないのかもとか想像してしまい、それ以上断り切れず受け取ってしまう。後で見ると5000円も包まれており、帰ってから倍にして奄美市に寄付をした。

島の人は親切だとか人がいいとかは聞いており、昨日の小学生も素朴だなと思ったが、異次元の衝撃である。こっちに慣れたら東京砂漠で暮らしていけないかもしれない。

名瀬に戻り、海鮮丼を食べて、名瀬港2015発のフェリーで喜界島へ。喜界島には2220到着である。

5/5 喜界島

最終日だが、雨がしとしと降っている。ここまでよくもってくれたというべきだろう。

まず俊寛の墓。中心部の近くにあり歩いて行ける。俊寛が流された喜界島がどこかは諸説あるそうだが、平家物語のアニメを見たばかりなので、行かないわけにはいかぬ。

そのあとは、周回バスに乗って、時計回りに回ることにした。一日チケットがバスの中で買える。3回乗れば一日チケットの方がお得である。

まずは伊実久というところで降りて、滝と東日本大震災の漂着船。

ここから歩いて、シュガーロード(サトウキビ畑の中の直線道路)を見て、島を横断する。歩いていると途中で牧場があり、声をかけられる。東京から来たとか歩いてるとかいうと、缶コーヒーを出してくれて、だったらここをこう歩いていくといい、お昼はここで食べるといいとかいろいろアドバイスしてくれる。親切である。ウクライナ戦の影響で農業にも影響が大きいとか、いろいろ聞く。

羊文学を聞きながら歩いていたのだが、ちょうど光るとき(アニメ平家物語のOP)になったところで「平家森」の遺跡の案内があわられたので、エモかった。

島を横断して、早町のサンゴ研究所。GWだが、学生?が一人いて応対してくれた。廃小学校を研究所として活用しているので、自由研究感が強い。

そこからまたバスに乗って、サンゴの石垣のある阿伝で下車。

喜界島にはハブがいないので、石垣を利用するという(石垣にハブが住み着くので本本島では使わない)。北海道はヒグマ、沖縄はハブがいるので歩くだけで緊張感がある。本州は平和である。

喜界島は蝶でも有名で、あちこちで見られた。時期や場所によってはもっとたくさん見られるようだ。阿伝から1時間ぐらい歩いて、牧場で勧められた食堂で遅い昼食をとって、バスに乗り、中心部に帰還。

ホテルでお風呂を使わせてもらい、時間をつぶして小さな喜界空港から奄美に飛び、20分で乗り換えて羽田に戻った。

島内はバス移動だったので、時間の調整が難しかった。レンタカーが普通なんだろうな。沖縄に比べたらずっと観光客が少ないのだろうけど、思いがけず素朴な人情に触れる旅行になった。

2021/11国東半島

コロナが小康状態のうちにどこかに行こうと思ったが、すっかり出不精に戻ってしまい、11月になってしまった。11月は後半にも飛び石連休があるので、ようやくそこで国東半島に行くことにした。マイルも使ってしまいたい。

国東半島は六郷満山といってお寺が見どころでたくさんあるのだが、分散している。観光バスを使おうと思ったが、コロナの影響か11月は催行されていないようだった。また路線バスも少なく曜日運行のコミュニティバスがあるぐらいで、しかも最高峰の両子寺に行くバスは去年廃止になったという!なんと。

しかし、国東半島のトレッキングコースが設定されていて(2種類あるようだが、もう一つ(PDF)はもう歩く人は少ない模様)、うまくつなげば2日で40km!歩いてなんとかなりそうである。泊まるところも少ないのだ。ただ、寺の拝観時刻に間に合うかとか、コロナでバスが間引きになってないかとか若干不安は残る計画となった。

写真全部

GPSログなど

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赤:歩き、青:バスなど

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赤:1日目、青:2日目

飛行機の都合で1日ずらして、21(日)から24(水)の日程である。

■11/21

福岡空港へ。離陸が少し遅れて、スマホで九州の特急をキャンセルするが、結局間に合って500円損する。まずは博多から宇佐へ。小倉のスイッチバックで進行方向が逆になるのだが、みんな揃って椅子をひっくり返すのがおかしい。いい内装の特急。

宇佐神宮は広々していて、犬の散歩をする人がいたり、落ち着いた雰囲気で地元で親しまれている感じでよい。ヒョウタンのお守りを買ったり、おみくじ(大吉)を引いたり。池の紅葉が良かった。

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バスの時間が合わず初日からカフェ(あんまりない)でゆっくりしたり時間つぶし。コンビニで明日からの行動食のパンを買って宿へ。駅前で温泉はあるが、食事もなく泊まるだけ。

■11/22

早朝の電車で中山香駅へ。そういえば平日なので学生がたくさん乗っている。雨だが駅で身支度をして出発。緩やかだが登りがきつい。道中の紅葉はきれい。

最初は熊野摩崖仏。石段に沢蟹がたくさんいる。写真で見てしまっているのでフーンという感じ。

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次は真木大堂。あっさりついた。下りだからか。

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あまり期待していなかったが、大威徳明王などの大きな仏像が見ごたえあり。ここから朝日・夕日観音へ向かう道がわからず迷う。結局敷地の中を抜けるのが正しかった。

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しいのみがたくさんおちてた。あと、クヌギも多い。名産シイタケの原木になるんだそうだ。

夕日観音から田染荘の景色が素晴らしい。ほたるのなんとかという観光施設があるので行ってみるが、閉鎖していた。

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岩脇寺を抜けて、七田の集落でまた迷う。竹林がやけに荒れてるなと思いGPSを確認したら集落の中の道が間違ってた模様。山道より分岐や作業道があるので迷いやすい。

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こんな道荒れてる?と思ったら間違ってた。

峠に向かって上ると植生が東日本と違うような。椎の木が多い。野生のキジに遭遇。下ってしばらく歩くと富貴寺である。

国宝指定の富貴寺の大堂はいいたたずまい。紅葉は来週あたりがピークというが十分だと思う。午前中雨だったの残念ながらしまっている。この日はモダンな宿坊に泊まる。黒猫がいたりしてよい。混んでいて夕食がなかなか出てこないが他にすることもない。翌日は朝座禅に参加して、朝食なしで8時におにぎりをもらうことにする。

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靴が新しいのだが、甲の部分が当たって痛い。甲高ではないのだが。。。

 

■11/23

7時から座禅の前に、コンビニのパンで軽く朝食。今日は頑張って歩かないと。集合すると参加者は自分だけだった。昨日は6人とのことだが、お坊さんとさしである。中に入ることができて、残ってる部分の壁画の説明もしてもらえた。

8時に出発。休み休みおにぎりを1つずつ(2つと言ってたのが3つ入っていた)食べながら調子よく歩く。ただ、ちょくちょく分岐を間違えたりする。GPSないとわかりづらい。集落の中にある名水や山神社がどこかわからず通過してしまった。昨日と違って天気がよいので気分が良い。山も紅葉が進んでいてきれいである。並水ダムの駐車場で昼休憩し、さらにロードを歩いて山道に入ったり車道に出たりしながら走水観音までくると、もう両子寺は間近だ。

両子寺は紅葉のピーク(標高が高い)で、祝日でもあるので繁盛している。モミジがきれい。奥の院はまた石窟である。急な舗装路を歩いて両子山頂(700mぐらい)に登ると雲は多いが、下界が国東半島一周見渡せる。あした行く予定の姫島もよく見えた。ただ風が冷たくて早々に退散する。

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ここから両子山北峰から犬鼻峠に降りたのだが、荒れてて危なかった。マングローブみたいに小木が茂ってて方向がわからなくなったり、急なトラバースをトラロープを頼りに何度も通過したり。一応看板がところどころあったが、廃道に近いような感じだったので、降りたらほっとした。

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シイタケを栽培しているところ

も少し車道も歩いて、あかねの郷に到着。ロッジ風の部屋で、温泉だがシャワーが非常に弱い。夜は麦焼酎(名産)を飲んだ。

 

■11/24

朝食時にどうも富貴寺でもいた人がいるのに気が付いた。泊まるところが少ないので重なるのだろう。あちらはランニングのようだった。ご苦労様である。

ローカルバスで伊美に出て、フェリーで姫島に到着したら土砂降りである。乗り場にザックを預けて少し待って弱まったときに出発。レンタルサイクルのつもりだったが諦めて、傘をさして行ける所だけにする。観音岬の仙人堂は吹き飛ばされそうだった。古民家(大したことない)とビジターセンターでムービー(こちらはよかった)を見たりしてるうちに雨が収まってきたので、自転車で灯台に行こうかとも思ったが、寒いのでよして、1130のフェリーで戻る。

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道の駅くにみに行って、地元の知人に聞いていた名物のタコメシと姫島の車エビを食堂で食べる。おいしい。シイタケと銀杏を買ったりする。安い。バスまで3時間近くあるので、浜辺で昼寝をする。晴れてきてよかった。キャンプ場もあるし、夏はすごく良いのではないか。

バスで空港に行くのに途中で乗り換えるのだが、後続が来ないので心配になる。始発の次ぐらいのバス停で遅れるのは不思議なのだが、10分遅れぐらいできてよかった。

飛行機は帰りも満席だった。

久々にきっちり予定を組んで回る旅行らしい旅行をしたので、充実感があった。

放射対流平衡モデルについて

2021年のノーベル物理学賞を真鍋淑郎さんが受賞されました。

「放射対流平衡モデル」の構築は僕のような初学者の読むテキストにも載っているような業績なので、簡単に説明してみたい。以下、記載のない図版は『一般気象学』(小倉義光,2016,第二版)からの引用です。以下の内容は概ね同書と、放大のテキスト『改訂版はじめての気象学』によります。

 

そもそも何の話かというと、大気温度の高度分布のシミュレーションです。

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観測では、高度が上がると、対流圏では気温は下がり、成層圏では気温が上がります。

いや、順番が逆で、対流圏の上に発見された、気温が高度とともに上昇する層を成層圏命名したといいます。どうしてこうなるのか。

 

まず地球全体でエネルギーの入り(赤)と出(青)を考えます。地球が受ける太陽放射と地球からの放射が釣り合っているはずで、どちらも黒体放射によるものとすると、以下のようになります(S:太陽定数(単位当たりのエネルギー)、A:アルベド(地球の反射率))。

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『一般気象学』(小倉義光,2016,第二版)

地球の放射Ieは温度の4乗に比例する(ステファン・ボルツマンの法則)ので、これをとくと地球温度Te=255K(=-18℃)になる。これは大気の存在を考慮していませんが、実際、大気の上端ではこれぐらいの温度になるそうです。

 

次に大気の影響を考えます。大気は上端から下端(地表面)まで厚さがあり、密度が違うので、たくさんの層があるものとして、それぞれに入ってくるエネルギーと出ていくエネルギーを考えます。

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このとき、各気体(二酸化炭素、オゾン等)の高度による分布の違いと、放射特性(吸収する波長の特性)を考慮する必要があります。例えば、オゾンO3は高度25kmを中心に分布していますし、水蒸気は地表面付近に多く分布しています。

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こうした各層の放射を考慮したモデルを温度が平衡状態になるまでシミュレートすると、1年ぐらいで下図の左のように収束するそうです。

地表面の340K(67℃)は高すぎますが、ここから高度10kmぐらい(対流圏界面)までは高度とともに180Kまで温度が下がる。そこからはオゾンが紫外線を吸収することで加熱され、高度とともに上端の255Kまで昇温しています。

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『改訂版はじめての気象学』(田中博、伊賀啓太、2021)

この静的なモデル(放射平衡モデル)では、オゾンによる成層圏の形成は表現されているにしても、地表面の340Kは高すぎるし、そこから10kmの上昇で160℃も気温が下がっており、これだけ温度差があれば垂直に対流が発生して温度差が解消されてしまうはずです。

そこで、対流が発生することを考慮したモデル(放射対流平衡モデル)が先ほどの上図の右側になります。地表面は300K(27℃)、高度12kmの対流圏界面では220K、下部成層圏はほぼ等温で上部成層圏で緩やかに昇温し、上端で255Kとなっています。

これ(赤線)を観測結果(実線)と比べると、かなりいい近似になっていることがわかります。

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以上、説明は非常に簡単ですが、これを1960年代のコンピュータ・リソースによる計算量で行ったわけで、よほど芯を喰ったモデルでないとこんなにうまくいくとは思えない。以下の記事では、1日あたり8000ドルかかっても計算結果が爆発したりと苦労がうかがわれます。

https://www.metsoc.jp/tenki/pdf/1987/1987_10_0647.pdf

 

やはり、コンピューターは仮想通貨のマイニングとかじゃなくて、こういう使い方をしてほしいものです。

2020年の夏

どうもやっぱりインターフェースがかわって面倒くさかったり、そうでなくともコロナ禍でブログに書くほどの遠出がなかったりして、ずいぶんさぼってしまった。

とは言いつつも、7月の出羽のあと、8月は筑波山飯縄山、9月のシルバーウィークにはテントを持って雨飾山に行ったのだった。

 

photos.app.goo.gl

あまりほいほい出かけるのも憚られるようだったが、ずっと家にいるのも健康上よくない。8月には少しずつ確かめるように近場に出かけたのだった。9月になるともう少し大胆に、観光地に出かけるわけでもなしと前から気になっていた雨飾山まで遠征。各地の山で登山口までのバスが運休されてたりして、アルプスを縦走する感じでもなかったのでちょうど良かった。

その後、GOTOが東京も解禁になるなどの動きがあって、10月には、旅行仲間と檜枝岐から燧ケ岳に登った。紅葉を見にいくつもりが、思いがけず山頂は雪になり、紅葉と雪が両方見られた(寒かった)。

11月には秩父関八州見晴台へ行ったので、6月以来、何だかんだ言って毎月山へは登っていたことになる。

誘い合わせていく感じではないし、小屋泊まりも避けたいが、山に行く分には例年と変わらないというか奥多摩あたりはむしろ混んでるような、やっぱり今年は妙な年だ。