家で焚き火(大平宿総集編) その1
【大平宿一回目】 2007年秋
行くにあたって、美術部探検班OBのmlで誘ってみたところ、なんと10人も集まった。古民家と囲炉裏の集客力恐るべしだ。
DPZに記事が載ったのが2007年の8月のことだったが、それから下調べやスケジュール調整などして、紅葉の時期であろう10月13、14日の週末に行くことに決まった。
関東、関西、あちこちから集まるので、集合は飯田駅に13時とした。そこからレンタカーに分乗して大平街道を20km行くのである。
【東京から飯田への行き方】 東京から飯田に行く場合、 ちなみに新宿<->飯田の高速バスは、日本の高速バスの草分けらしい。本数も新宿発が毎時あって驚いた。逆に飯田線はバスができて随分と客が減ったらしい。線路が天竜川の深い渓谷沿いにうねっているので特急でもあんまりスピードが出ないようだが、観光で行く分には美しい景色を楽しめてちょうどよい。 |
さて、飯田駅前に無事集合したので、昼食を食べて、手分けして準備だ。
まずは大平宿を管理しているNPOがあるアルススポーツで、鍵と薪をゲット。買出し組みは、スーパーで鍋の材料と酒を調達する。
大平宿は、飯田から大平街道をまっすぐ行き、飯田峠を少し過ぎた辺りにある。そのまま西に進むと南木曽方面に通じており、昔は栄えた街道筋だったようだ。もちろん今の大平街道は、昔の街道そのものではないが、急な登りのぐねぐね道でチャリダーにはよく知られた場所らしく、道中、本気チャリの人を見かけたりした。
折りたたみチャリでここを登った、DPZのライター木村さんの苦労がしのばれる。
大平街道。大平宿は、左端、川で低くなってるあたりにある。
大平宿についたのは15時ごろだった。木曽側から(折りたたみじゃない)チャリでアプローチして来たF田さんは、既に到着して待っていた。泊まるのは当然一番古い建物で、江戸末期に建てられた「藤屋」である。木村さんが泊まった「八丁屋」の向かいに建っている。ちょっと覗いて見たところ、つくりはどの建物も大差ないようだ。
「江戸末期」というのがいいっすね。ちょんまげの人がここに泊まっただろうか。
藤屋。立派なものですね。 軒の張り出しは「せがい造り」というらしい。
中に入ると、建物は古くても、水周りは補修してあって、たまには使われてもいるのできれいなものだった。あこがれの囲炉裏もでかくて立派だ。掃除をして一息ついたらDPZにも載っていた諏訪神社まで散策してみる。
苔むした石段と新しめの狛犬
諏訪神社というらしい。
ぼろい!ぼろいよ!神様大丈夫なんだろうか。
我々は悲しいほど理系なので、すげえ、CPU丸出しだよ!とか言ってはしゃぐ。神社のCPUって何だ。
明るいうちから火を焚きだしてしまったり、廃小学校を見に行ったりしているうちに、暗くなり、宴会タイムとなった。
鍋はきのこ鍋だった。買出し部隊は、スーパーで売ってる全種類のきのこを全部買ってきたそうで、すごい量になっている。一つ1000円するきのこ(おしょうにん)まであるよ。
しかも、この「おしょうにん」はすごく苦くてがっかり系だった。実は鍋に入れるんじゃなくて、焼いてつまみ的に食するものだったらしい。1000円もしたのに!
でも、全体的には超満足。きのこ過ぎ!
そして米!竃がついていて、釜でご飯を炊くのだが、これがうまいこと。炊き上がりといい、おこげの具合といい、最強です。電気炊飯器じゃこうはいかない。水がうまいのもあるのだろう。
何故か持ってきた三線(沖縄の三味線)を引いたり、自作の果実酒を飲んだりしているうちに夜は更けていった。夜は結構冷えるので、防寒着や厚めの寝袋は必須だ。そういえば、バイクで来たE君は到着が遅くなり、暗くなってから宴会に参加していたが、いつ来たのか気がつかなかった。よくたどり着いたな。
宴には三線?!
そして宴のあと。
翌朝。
当然の帰結。「頭いてぇ。」
当然のように二日酔いだったりする人もいますが、沢の水で眼を覚ます。
きれいに掃除をして、戸締りをして出発する。帰りはすぐ飯田に戻らず、大平街道を反対側の南木曽方面に下りると温泉があるので、そちらに向かう。
温泉でひとまず解散となり、飯田に戻る人は戻って川本喜八郎美術館に行ったり鰻食べたり鍵を返したりして、帰京した。