2023-24台南旅行

コロナやらなにやらで4年ぶりの海外旅行である。この年末年始は近場で楽しめそうなところで、台南に1週間行くことにした。ただぼんやり行くのもつまらないので、戦前に書かれた本の舞台を見てこようと思う。幸い各書の解説が親切で、地図なども掲載されている。

1.内田百閒のシュガートレイン(新営の五分車)

『蓬莱島余談』(内田百閒、中公文庫、初版2022年)

阿房列車』の著者である内田百閒は鉄オタとして知られているが、法政大学の教員時代には航空部の顧問を務めたり、その後は日本郵船の嘱託になったりと、乗り物一般と縁が深い。郵船の嘱託になった昭和14年(1939年)の秋には、郷里の岡山中学の一年先輩の中川蕃(しげる)に誘われて台湾に旅行をしているが、その時も客船、汽車、自動車、そしてサトウキビを運ぶディーゼルの小列車(五分車)を9日間の短い日程で乗り回している。中川は当時明治製糖の取締役を務めており、その招きを受けて、入社したばかりの郵船に便宜を図ってもらったのである。

 

基隆に上陸した百閒は、明治製糖の倶楽部のある麻豆に行くのにも阿房列車を楽しんでいる。台北から台湾縦貫鉄道で南下し、乗換駅の蕃子田駅(現在の隆田駅)で降りるのをわざわざ乗り越して、当時の終点の渓州駅(現在の南州駅)まで乗り、そこから蕃子田駅に引き返したのだ。蕃子田駅から麻豆間で乗ったのが、通常のレール幅の半分の軽便鉄道である五分車だ。サトウキビ運搬以外に客扱いも行っていたようだ。

この五分車に乗ってみたい。調べてみると、

  • 麻豆に明治製糖の建物は残っているが、現在蕃子田線は走っていない。
  • 現在サトウキビを運搬しているのは雲林県の虎尾のみ。
  • 観光路線として営業しているのはいくつかあり、台南では烏樹林製糖、新営製糖がある。

ということが分かった。

サトウキビの収穫は冬場なので時期的には運搬しているところも見られそうだが、雲林県まで足を延ばすには日程が足りない。それは次回にとっておいて、新営駅から烏樹林と新営製糖と両方はしごできるので、ここに行ってみよう。土日しか運行していないらしいので、今回の旅程では大晦日に行くしかない。

 

最初は烏樹林製糖の五分車である。新営車站から黄色幹線のバスに20分乗って烏樹林で降りると、さっそく目の前の交差点を線路が横切っていてわかりやすい。10分ぐらい歩くと園の入り口である。

100元払って烏樹林駅のホームに入り、展示されている車両を眺めたり、猫と戯れたりしていると発車時刻になり、乗車する。案外と人が多く、最初に乗り込んだ短い編成の方から長い編成の方に乗り換える。

ゴトンとゆっくり動き出した五分車は、徐々にスピードを増してガジュマルの繁る園を抜けると、先ほど歩いてきたバス通りの交差点を渡り、灌木の直線に入って約20分の走行で、終点の新頂埤駅に到着した。

新頂埤駅では大腸包小腸と書くホットドック(字面を見るとぎょっとする)や冬瓜茶など飲み食いするものを売っている。トイレもある。10分ぐらい停車して、折り返す。

往復1時間ぐらい(バス停からの歩き時間は含まない)の旅であった。

 

さて、またバスで新営駅に戻って次は新営製糖の五分車である。実はバスに乗る前に、新営駅を出てすぐ左手に新営製糖の新営鉄道文化園区という看板が見えていた。このあたりの線路沿い一体が公園になっているのだ。以前は、[新営]ー[中興]ー[八老爺]という観光路線としては最長の4.6km30分を五分車が走行していたらしいのだが、現在は[新営]ー[中興]の1km足らずしか走っていない。短い。。。

 

発車時刻が合わないので、新営駅までの戻りに乗ることにして、中興駅までぶらぶら歩く。中興駅ではいろんな車両が展示され、アイスクリームも売っている。乗る車両はトロッコ列車ではなく、勝利号という青いピカピカの車両が待っていた。あとで調べると、これは1949年日立製作所製の気動車で、つい半年前2023年7月から土日祝日に運行することになったそうだ。

走行時間は10分に満たない。これはこれで貴重な車両なんだろうが、少々味気ない。

 

さて、台南市の五分車はこれで終わりなのだが、高雄市郊外の橋頭製糖にも五分車が走っている。旅程上、土日祝日の運行日には行けなかったのだが、ここは廃製糖工場の見学ができるので別の日に行ってみた。台鉄の橋頭駅か、MRTの橋頭糖廠駅から行かれるので便利である。

広々とした敷地全体が公園のようになっており、五分車や工場、当時の官舎などの展示の他、バーベキュー場や花卉園まで附属していて、地元の人も来るようだ。

 

百閒だけで長くなってしまった。

2.大耳降の日式建築(大目降=新化区の日式建築)

『応家の人々』(日影丈吉、中公文庫、初版2021年)

日影丈吉の『応家の人々』という台湾ミステリー小説がある。百閒が渡台したのと同じ昭和14年(1939年)、台湾の大耳降という町を舞台に何件かの殺人事件が起こり、内地から特務の中尉が派遣されて謎解きを行う推理小説である。日影は1943年に応召して台湾に駐屯しているが、本作は1961年の発表である。推理小説としては正直微妙であるが、台南の情景が美しく描写されている。

舞台となる台南の大降という町の名前は、大降をもじったもので、1920年に郡役所が置かれて以来、新化と呼ばれている。1920年代の古い町並みが残る新化老街が有名である。

大耳降街は台南平野の片隅にあり ―この辺から嘉義方面にかけて徐々に登りになる― 台湾海峡に面した平野の中の、大きな村落という感じだが、中心部に思ったよりこざっぱりした煉瓦の建物が並んでいる
(『応家の人々』日影丈吉、中公文庫)

新化老街は鉄道駅から離れているので、台南から40分ぐらいバスに乗るのが普通のアクセス方法だ。今回は新営から台南への道中によったため、最寄りの新市駅で降りて5kmほどシェア自転車(YouBike)を漕いでいった。なお、小説内でも主人公は台北から大耳降に鉄道で向かっていて、最寄り駅から5、6キロ、かなり歩かされたという記述がある。

 

私はまず警察署へ寄ることにした。警察署は街役場の構内にあった。小さいが、むっくりした感じの、黄色い煉瓦建ての立派な洋館が二つ、檳榔樹や棕櫚の木の茂みにかこまれて、ならんでいるところは、駱駝のこぶを思わせた。(引用同)

警察署が入っていたという街役場の建物のモデルはこれであろう。街役場という看板が正面にかかっているこの建物は、現在は1934街役場古跡餐坊というレストランになっている。1934年の竣工だから、1939年時点では築5年の新しい建物だったはずだ。現存が当初からどれだけ変わっているか分からないが、久我中尉のみた黄色い煉瓦は、台南の林百貨店や台南市美術館と同じ黄色いスクラッチタイルだったかもしれない。1923年の関東大震災当日に落成した帝国ホテルが無事だったため、帝国ホテルで使われていた黄色いスクラッチタイルがしばらく流行したという(その耐震効果は専門家によると神話に過ぎないそうです)。

 

それから、一、二日この町にいたいと思うんですが、宿舎をお世話ねがうように、署長さんに話しておいてください。(引用同)

久我中尉はこんなところに泊まって探偵したんだろうか。木造平屋建ての長屋で、住んだことはないがどこか懐かしい。雰囲気が出ないので裏から撮ったが、現在はおしゃれなバーやお店が入っている。

 

氷屋は短いメーンストリートが果てるところの、町角のちかくにあった。
浅い亭仔脚(アーケード)のかげにアイスクリームのストッカーをならべた狭い店があり、店の床を一段あがって、パーラーにはいるようになっていた。(引用同)

事件の一つが起こった氷屋は、アーケードの端にあったという。

このアーケードが有名な観光地の新化老街である。1920年代に作られた繁華街だというから、大目降が新化という名前になった頃に成立したのだろう。きれいなので古いものでも建物の改修改築は行われているようだ。神保町の看板建築のようなファサードで、一階部分が引っ込んだ台湾でよく見る形式である。ほんとに短いので、台南からわざわざ40分かけてこれだけを見にくるとがっかりするかもしれない。

 

3.衰頽した市街の荒廃の美(台南の運河跡)

『女誡扇綺譚』(佐藤春夫、中公文庫、初版2020年)

「じょかいせんきたん」と読む。1920年というから今から100年ほど前である。手酷い失恋で失意の底にあった佐藤春夫は、台南で歯科医を開業していた郷里の親友に誘われて台湾に旅行する。7月から1か月のつもりが丸一夏、3か月の旅行になったという。郵船の船で基隆から上陸したのも百閒と同じだが、春夫の頃は台湾が明治28年(1895年)に日本の領土になってから25年しか経っておらず、原住民の抗日運動である霧社事件に遭遇している。時代や著者の心的状況を反映してか、前に紹介した2作より暗い印象が強く、また日本の影響を受ける前の文物の描写が多い。

台南の中心部の西側、現在の神農街のあたりは、清代には5つの運河で安平港とつながっており、五条港と呼ばれる港が貿易で栄えていた。しかし、運河は土砂の堆積で徐々に埋まってしまい、春夫が訪台したころにはすっかり荒廃していた。女誡扇綺譚は五条港の一つ、佛頭港(作中では俗称の禿頭港)の周辺の「衰頽した市街」を、友人と古地図を見ながら「荒廃の美に打たれ」ながら歩くうちに、清代の富裕な商家の廃屋に遭遇し、そこで事件が発生するミステリーとなっている。中公文庫版の『女誡扇綺譚』の解説によると、廃屋のモデルとなったと思しき建物は、残念ながら2019年に壊されてしまったそうだ。

現在の運河の奥に、当時の五条港を示す案内板があった。春夫の友人が持っていた古地図はないが、幸い「台南歴史地図」というアプリがある。Googleマップと古地図を重ね合わせて表示してくれる優れもので、これを頼りに当時の運河の痕跡を探してみよう。

まずは禿頭港。正式な名称は佛頭港だ。佛頭港そのものはないが、港にあった景福祠という廟が残っている。場所は、水仙宮という大きな市場の中である。あとから周囲が商業地区になって市場に埋もれたらしい。

水仙宮市場の西側に比較的新しい門があり、たしかに「佛頭港景福祠」と書かれている。賑やかな市場の中に進むと、奥に祠が鎮座しており、人々がお参りをする姿が見られた。正月ということもあり、贋の紙幣を燃やして神様やご先祖に捧げる金炉も稼働していた。

1896年の台南城図でも、佛頭港街の文字が見る。次は古い町並みが残る観光名所になっている神農街に行ってみよう。

神農街は、南勢港の北側に位置していたので、元は「北勢街」と呼ばれていたが、通りの西端に神農を祀る薬王廟が建てられたため、神農街と呼ぶようになったそうだ。現在はリノベーションされたおしゃれな店が並ぶ観光名所となっているが、古い外観は残っている。『歩き方』によると、二階から荷物を上げ下ろしするためにバルコニーがせり出しているということだが、それにしてはせり出しが小さいように思う。当時のままではないのかもしれない。

神農街の中央付近にある金華府という廟は、当時五条港の五大氏族の一つだった許一族が建てたものだそうだ。並ぶ町屋と同じく敷地の幅が狭い。

西端の薬王廟のあたりまで行くと観光名所の喧騒も落ち着いて、女誡扇綺譚の大きな商家の廃屋が出現してもおかしくないような雰囲気になる。

 

さらにアプリを確認すると、現在の海安路二段269巷と259巷の狭い路地は運河だったようだ。行ってみよう。

途中、暗渠(路地の右側の部分)があった。これも運河の名残だろうか。

路地まで行ってみると、五条港のマンホールがあった!

路地の出口に直交して見える海安路から一段低くなっている。たしかにここは清朝時代には運河だったのだろう。100年以上前の痕跡が残っているのは驚きだ。埋め立てられたのもあるだろうが、幅が狭い。大きな船ではなくて小舟で艀をしたりして貿易を行ったのだろうか。

4.おまけ(虱目魚:サバヒー)

台南では、サバヒーという魚を粥に入れたり焼いたりしてよく食べる。妙な名前の魚だが、百閒によると、昭和14年当時も安平魚(アンピンヒイ)という魚を育てていて、鯖とは似つかぬ魚だが日本名で「まさば」と言う事にしていたそうだ。「ヒイ」は魚だから「まさば」と「ヒイ」が合体して「サバヒー」になったのかしらん。